8月

いろいろなスケールではかり直しても、まだ、かなり病気がなおったとは言いがたい私。

薬にできることは、ここら辺までだろうなと自分の中で納得してしまっているので、やはりあとは、はっきりしすぎている物理的な原因をなんとかできたら。


それがムリだから、つらい。考え方の歪みを直そうて、何もあそこまで幼い頃から殴られ続けなければ、今も苦労していない。

ぎゅっと抱き締められた記憶はない。優しい背中におんぶされて、自分でもどうしようもないぐずりを、慰めてもらった覚えはあるけれど、、

その人は、自分には不幸しかないみたいにいっていた。主観にとらわれたら、そうとしか思えない長い時間が人生かもしれない。でもね、死んでも誰かのなかでいきつづけている。それから。自分は亡くなったのだと、自覚する。か、気付くか、ある意味引導をわたされる。

宗教とか関係なく、自分は死んだことに気づかないと、次にいけない。気付いても、したいことがありすぎる場合は、そこから動けず、世間を怖がらせるのかも知れないが、私にはよく分からない。

何となく思うのは、とにもかくにも、自分は人生終えたなと、自覚する。か、諦める。でないと、なんだか分からないが、次に進めない。


体験をもとに、ぼかして話しています、何が言いたいんだ、という文章でいつも以上にすみません。

8月は、私には色々ありすぎます。戦争がどうとかは経験していないのに、それ以外で色々。

死んだら、自覚もつのはそのときとして、今は後悔しないように、いきる時間を生きといたほうがいいのかもしれない。出口が見えないつらさの毎日だけど、有り体に言うなら、行きたくても行けないとこには、思いを馳せる。行かないと行けないとこには、後悔しないように。
何より、居ないけど会えないけれど好きな人たちがいるならば、忘れずに好きで居続ければいい。

夏らしい話にし損ねた感じですね。これ以上はっきりかけなくてごめんなさい。


出来るだけ、穏やかに構えて過ごそうね。会えない話せないまま夏がまたまた過ぎても、好きな人は好きで変わらないから。